慶長11年 | (1606) | 神田弓町(門前町有)(慶長5年の説も有)に創建。 |
明暦3年 | (1657) |
明暦の大火により、現在地に移転。 『江戸鶏声ガ窪の薬師寺』と呼ばれていた1700年代に『妙清寺』と寺名を変更したようである。 |
昭和20年 | (1945) | 東京大空襲により本堂庫裏全焼。(32世宗英代) |
昭和30年代 | (1955) | 檀信徒の協讃を得、本堂庫院再建(33世鴻一代) |
平成6年 | (1994) | 老朽化に伴ない本堂庫院再々建(34世哲夫代) |
平成20年 | (2008) | 本堂耐震工事(35世崇弘代) |
『妙清寺 藥師堂』(「東京名所図絵」より)
妙清寺は小石川白山前町五十七番地にあり。醫王山と號す。禅宗。東陽寺末なり。坂あり。藥師寺といふ。寺門東に面す。「醫王山」三字の扁額「施主大木口哲。當山廿九世豐賢拜書」右柱に「病災除方位除 諸願祷禱所」の一札を掲げて。門番所あり。香華を賣る。門内正面は藥師堂にして。堂前左に水屋(盥水石盤。文化七庚午歳(江戸後期1811年))あり。堂は土藏造一間半四面。其前面に間口二間半奥行一間半木造の立增あり。「藥師堂」と扁し。格子戸四枚。鰐口に賽銭箱。「め」の字の奉額。妙清湯の廣告。眼病全快者連名報賽の横額一面(一千七百六十九人とあり明治三十六年寄進)あり。堂は崖を背にして懸れり。毎月廿八日。護摩を修す。参詣人多し。
江戸砂子(三)に云。醫王山妙清寺。藥師如來。春日作。霊驗あり。
藥師堂の右に石階あり。石階三十級。其低き所に。妙清寺本堂庫裡あり。本堂の前。松あり閼伽井あり。墓地は右の方五十八番地に属す。
妙清寺では代々、徳川家と同じ葵の紋を寺紋としてまいりました。
その由来は江戸時代にまでさかのぼります。
将軍が妙清寺をお休み処としてご利用され、妙清寺がおもてなしをした事から徳川家と同じ家紋を授けられたことが由来となっております。
それから、葵の紋は妙清寺の家紋となったのです。
薬師三尊坐・立像
木造金箔・昭和32年 松本昇 作
十一面観音立像
木造彩色・昭和54年 松本昇 作
釈迦如来坐像
木造金箔・昭和56年 松本昇 作
開山・両祖坐像
木造彩色・昭和58年 松本昇 作
韋駄天立像
木造・昭和50年 松本昇 作
庚申塔 駒型四角柱
寛文11年(1672年)江戸後期
水子地蔵
爲開山三百八年遠忌記念
維時昭和五十四年春彼岸
施主惣檀中
三十三世慶三鴻一代
台石寄附土田石材店
(台座の刻印による)